『とらいあんぐるハート〜無想剣客浪漫譚』




XLT・扉強奪

 本州と違い旭川は春先の五時を過ぎるとあっという間に日が沈む。夜の帳が瞬時に世界を包み込んで綺麗な群青色の中に煌く遥か彼方の輝きで彩りを付けている。しかし、そんな海鳴では見れないような星空を見上げながらも、小鳥の表情は優れなかった。原因はわかっている。昼に到着して事情を説明していた矢先に一角の口から飛び出した探し人に、真一郎は見る見る顔色を変えると彼女を引きずるように部屋を飛び出した。部屋に残されたメンバーは慌てて我先にと後を追い、そして楓の案内で到着した客間で目撃したのは、長い間捜し求めていた運命の恋人とようやく出会う事ができたように止めど無く涙を流し、そして真っ白な手を高揚した両手でしっかりと握り締めた彼の姿だった。
 やっぱり……真君は……。
 どうして忘れてしまっていたのかはわからない。だが、全てを思い出した今となってははっきりと脳裏に焼き付いている。真一郎と雪が互いに惹かれあい、このまま結婚していくのだと心の何処かで悟って、自らの気持ちに鍵をしてしまったあの瞬間が。だが、今小鳥は真一郎と婚約しており、秋には友人知人を招いて結婚式を挙げる予定だ。それが何より一番許せなかった。と、言っても真一郎が許せないのではない。自分自身が許せないのだ。友人として認識した女性と、幼い頃より好意を寄せていた幼馴染の恋人達を祝福すると決めていた筈なのに、忘れるなどと言う絶対にあってはならない理由で小鳥は鍵をした思いを解き放ち、少なくとも数度の体の繋がりをも得てしまった。それは友人を大切に思っている彼女にとって一番と言い切っても過言ではない裏切り行為だ。小鳥は小さな胸の前で両手を力いっぱい握り締めると、笑えそうに無い自らの顔を隠すように、一角に我侭を言って取ってもらった一人用の客室に引き篭もった。
 それからまだ小一時間にも満たないが、ずっと彼女は暮れていく見慣れぬ北海道の空を見上げては、まるで終りを知らない涙が手の甲を一滴一滴濡らしていく。
 答えが出かけた事もある。
 しかし、思いを遂げてしまった気持ちは答えを否定し、更にどす黒く変色していく。それは多分嫉妬言う名の感情だ。十年前に一度だけ曇り空のように心に広がったソレは、幸福の一歩手前まで来ていた感情を反映するように小鳥自身でもどうにも出来ない状態まで膨れ上がっていた。
 そしてそれがまた彼女を苦しめる。
 時々泣き過ぎて喉が痙攣を起こして、詰まったように咳き込んでしまうが、たった数時間で限界に到達した心は落ち着くどころか更に暴れまわっていく。
「私……私どうしたらいいのかな……?」
 蚊が鳴くように呟きが風に溶け込んだ。
 本当に大切な人。
 世界で一番大好きな人。
 この世で……失ったら、自分は生きていけないと思える人。
 すでに真一郎は小鳥の一部と言っても過言ではない程に好きで、真一郎も何度も恥ずかしがりながら愛を囁いてくれた。その時の彼は小さい頃から見てきた、絶対に嘘をついていない時の表情で、小鳥は顔を真っ赤にしながらも本当に嬉しくて、初めて真一郎の思いを聞いた時は、場をわきまえずに泣き伏してしまった位だ。
 それは誰もが心に持っている憧れであり、心に持っている理想であり、心に持っている夢だ。
 しかしそんな夢を、女の子なら本当に焦がれてしまう雪の夢を、小鳥は奪ってしまった。それは絶対に許されない事だ。
 胸に渦巻いていた罪悪感が方向性を持って、理性を打ちのめす。
 また溢れ出す涙を抑えようとせず、小鳥は窓枠にしがみ付くように嗚咽を洩らした。その時、控えめにドアをノックされた音が聞こえ、泣き疲れてぼんやりとした頭が正常な思考を放棄した。
「……はい」
 か細い返事が室内に木霊した。
 余りの小ささにノックした人物は少しだけ戸惑ったが、一拍の間を置いてドアを開けた。
「……千堂先輩」
 姿を見せたのは、心配そうに眉を歪めた瞳だった。
「野々村さん、大丈夫?」
 聞くのが余りに馬鹿馬鹿しい程に憔悴した様子の小鳥に、思わず顔を背けたくなる。そしてそんな状態の時に限って、瞳の友人達は揃ってこう言うのだ。
「大丈夫です。千堂先輩こそ、お疲れじゃないんですか?」
「そんな顔して大丈夫って言われても説得力無いわ」
「……すいません」
 自分でも無理があるのは承知していた小鳥は素直に謝るとそのまま俯いた。その姿は元々小さい彼女を益々小さく見せた。休み無く涙を流し続けた大きな瞳は充血し、瞼が腫れ上がり普段の純粋な輝きの欠片すら見る影も無く、消耗するだけの体力は張りと艶が内包していた頬をこけさせている。唯子あたりが目にしたら、間違いなく原因となった真一郎を殴り倒しているだろう。
 これを心配してたのに……。
 瞳は当たって欲しくなかった自分の予感が的中した事に、歯痒さと苛立ちを同時に感じていた。
 池で真一郎が北海道へ行くと宣言した時、力強く空を見上げた眼差しに浮かんだ決意は、瞳にはとても危ういものに感じた。確かに氷那を目にした時、彼女も忘れていた十年前の記憶を全て思い出していた。それはとても信じられない出来事で、本当に胸が痛くなる悲恋だけが心を締めつける一つの物語だった。その中で唯一信じられるのは雪が去り際に笑顔で社へと消えていった、女性ながらに綺麗と感じる季節外れの雪のような儚い微笑みだった。
 耕介の話によると、自分達の記憶を封印して悲しみからみんなを護ったのだろうという事だが、それでも思い出してしまった反動は瞳にも激しいものだった。だが、それが直接関係してしまっている小鳥であれば、想像もできない衝撃で心がばらばらになってしまうという予想は立てる事が出来た。
 そして、今それは現実となってしまっている。
 まるで生ける屍と化した小鳥は、のろのろと足を引きずるように窓に戻ると、また小さく肩を震わせた。
 結局私は何もできない! あの時も一番支えて欲しかった筈の雪さんと相川君を助ける事も出来なくて、今は野々村さんを救う事すらできない! ううん。救うなんて自己欺瞞でしかない。それでも大好きな後輩を助けたいという私の気持ちは本当なのに……。本当なのに……!
 ずきり。と、その時、右手から鋭い痛みが走り、瞳は意識を現実へと戻した。視線を右手に落とすと、無意識に握り締めていた拳が掌の弾力のある肌を突き破り出血していた。だがこの程度の痛みなど彼女に比べたら大した事無いと真っ白なハンカチで応急手当すると、ゆっくりと小鳥の背中に手を置いた。ぴくり。と、背中が反応した。
「野々……小鳥ちゃん……」
「……千堂……せんぱい……千……どう……う……うう……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
 小鳥の喉は堰を切ったように叫んだ。
 それは全てに疲れ果て、どうしようもなくなった人間の慟哭だ。
瞳も一度だけ経験がある。初めての大会でそれはもう両親が心配するほどに練習に明け暮れていた時、極限まで削りきった睡眠時間のツケが回ってきて、車に跳ねられた。左足は綺麗に骨折し、大会出場は次回へと延期された。他人から意見を取れば瞳のレベルなど些細な出来事に感じるかもしれない。しかし、当時の彼女にはそれが全てであり、今まで築き上げてきた人生そのものが崩れたような喪失感を覚えた。多分今の小鳥も同じ状態だろう。本当に信じてきた全てがたった一つの失敗や思いで崩してしまう。大方、雪を忘れて真一郎と結ばれてしまった己に対して、罪悪感が渦巻いている筈だ。
的確に小鳥の状態を思い浮かべると、瞳は何も言えなくなった。
ただ隣に座り、胸にしがみ付いて泣いている彼女の肩を優しく抱きしめるだけだ。
「野々村、辛そうだ……」
 その様子を開けっ放しになったドアから様子を見ていた一角が唇を噛み締めながら呟いた。
「ああ。でも、俺達は何も出来ないよ。これは真一郎君と小鳥ちゃんの問題だから」
 一緒になって小鳥の様子を見に来ていた耕介は、そう呟きながらも苦々しい表情を浮かべた。彼も言葉とは裏腹にみなみのクラスメイトと言う真一郎や小鳥達はほとんど寮生のような存在であり、十年という歳月は経っているが今でも大事な友人であり寮生だ。そんな存在が苦しんでいるのに手を差し伸べる事しかできない自分がとても無力に思える。
「相川も何やってるんだ……。昔の女と……そりゃあ好きで別れた訳じゃないけど別れて、それで野々村と結婚するって決めたのに、今更思い出したからって雪に鞍替えすなんて……」
 怒りを目頭に置いている一角に反して、耕介は氷那を見た時の真一郎の反応を思い出した。
「いや、もしかしたら……」
「え?」
 後ろで何か含んだような物言いをする耕介に視線を向けた瞬間、御剣家を大きく揺さぶる震動が襲った。文字通り体を宙に浮かした室内と室外の四人は驚愕した様子で変化のない周囲を見回したが、異変は廊下を駆けて来た尚護がもたらした。
「大変だ! 雪さんと氷那が攫われた!」



ぬおおお!こちらはこちらで緊迫した事態に。
美姫 「しかも、最後にとんでもない台詞が…」
海鳴、北海道と事態が進む中、どちらもとんでもない展開をしているね〜。
美姫 「次回がとても気になるわ」
うぬぬぬ。唸りつつ、次回を持とう!
美姫 「一人で唸ってなさい」
ぐるるるぅぅぅぅぅぅぅ。



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